昭和44年05月26日 朝の御理解



 御理解 第58節
 「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」

 しっかり信心の帯をせよと、しっかり信心の帯をしておれば、たとえ盗人じゃと言われても、乞食じゃと言われても腹を立てなとこう仰るが、腹は立てんで済む。いやむしろお礼が言える。私も申しましすがお道の信心をさせてもろうて、段々本当な事が分からしてもらうと、その本当な事が分かるという事。いわゆるそのう真の信心には、真の修行をせなければならんとこう申しますが、様々な成り行きとか自然とのいわば対決に於いてです。そこで例えばこれがいまここの58節のぐあいのお言葉を借りると。
 自然の対決に於いてですよね、盗人じゃといわれ乞食じゃと言われた時にです、腹を立てんで済むおかげ。それは信心の帯をしっかりしていないと、そこんところであのうよろよろする訳ね。言わば腹が立つのです。そうするとそれは自然の対決に対決して負けた事になるんですから、成り行きを大事にした事にはならんのです。成り行きを大事にするという事を簡単に使いますけれども。例えばそういうように実を言うたら難しいんです。この馬鹿がこの泥棒がと例え言われた時に。
 俺がいつ乞食をしたかいつ俺が泥棒したか、と言うて腹を立てたんではですね、もう既に自然のその、その言う事も成り行きといった様な頂き方じゃいけんのです。それにいわば勝っていくというかね、それかというて歌の文句じゃないけれどもその、泣いてなるかと心に誓いというようにです、どんな事があってもぐっと辛抱すると、いうような事であっても又これはつまらん事ですよね。どんな事があっても泣きはせんぞと、そういう様な空威張り的なものであっても、信心には繋がらないですよね。
 いかにその信心の帯を、しっかりしておらなければならないかとね。信心の帯をねしっかりしておるという事は、どういう事かと。いつも金光様金光様とお唱えしておる事かと。私は信心の帯をしっかりしておるという事はね。信じるという事だと思うね。神を信ずる心を心の中、心にしっかり巻いておく事が、信心の帯だと思う。そんならそのう神を信ずると言うてもです、あまりにもまぁそりゃ漠然としておりますから、どこをどういう風に信ずるかと。
 信心の信という字を分解してみますと、にんべんに言と字が書いててある。人が言うと書いてある。にんべんにものを言うの言う、ものを言うものをいうときのいうはこうですかね。言んという字ですね。言遍のごんですね、にんべんにごんとせられて信とかいてある。ですからそのう人が言うことを、を合点して聞くというか信じて聞くというか、それをもうひとつのまぁいう方をすると、それを神の声として聞くといった様な事も申しますね。御神訓の中に「天が下に他人という事は無き事ぞ」というのが有りますね。
 「天が下に他人という事は無き事ぞ。」してみるといわゆる世界の同胞と言うか、世界のはらからともいうですね。いわゆるいわゆる兄弟同志だと。その兄弟同志がですね、兄弟が憎いという様な事のあろう筈がない。言葉にはどんなに憎くこう言うておっても、やはれよかれやすとし思わなければ、例えばいわんのである。他人から言われたと思うと腹が立つ。けれども身内の者が親身に思って言うてくれたと思うと腹も立たん。他人から言われたと思うから腹が立つ。
 天が下に他人という事はなきものぞといういわば見解ですねぇ。そういう見解に立って人の言う事を信じるというか。どう信じるかというとね私の為に言ってくれておる。それは泥棒という様な事でも、乞食だという様な事であってもそうである。昨日北野の堤清さんがお届けをされました今朝方お夢を頂いた。この前に青年会に移動してある所の、田主丸の石井信司さんのお夢であった。それを信司さんがですねもう誰からかもうこっぴどくそのう投げられておる。相撲を例えば取っておる様な感じですねぇ。
 もう転んで起き上がれば倒され、起き上がれば投げられという様に、まようもまぁあんなに投げられるものだと、ところが信司さん自身はニコニコとしてそのう投げられておるというのである。私はやはり投げる稽古と同時に、投げられる稽古もしとかにゃいけんと思う。怪我するですね、柔軟な例えば転び方と、柔らかい転び方と、ですからそのう打ち向かう者には、負けて物事時節に任せという様なことが、御教えがありますが、そのう打ち向かう者には負けて時節を待つという。
 時節を待つ間がです負けて残念だ歯痒いというのではなくて、ニコニコとして負けておれるという事。怪我をしないひとつも。投げられても投げられても怪我をしない。投げられても投げられてもニコニコとしておる。してそのう情さんがそういう場面をお夢に頂いて信司さんは、偉いなぁと思うておった。所がねところが暫く投げられたら、そのう便所に入って行った信司さんが。そして堪えに堪えとったという様にして、もうその慟哭して泣いておる。お便所の中で男泣きに泣いておるというそのお知らせであったと。
 昨日青年会の信心実習がありましたが、皆さんここに沢庵の人が参りました。中に石井信司さんも丁度来ておりましたから、あんたもしこんな事あったら、いえ僕は今日は行きませんって、なら皆んなをそのう見送りに来たというて来とりました。それで皆んなを送り出してしもうて、お広前に誰もいないそこんところで、一生懸命何か御祈念をしておるその御祈念の姿が、今日先程堤さんからお届を信司さんが、投げられて投げられてそれでもニコニコしておるという事を、その事をと私は思い出させて頂いたら。
 はぁ今日は投げられて来たつじゃなかろうかとようと。私文雄先生が言うたようにこれはね、石井信二さんという事だけ限った事じゃなかろう。けれど御理解だからあんたが頂いたお夢をねえ。いわゆる今日の御理解じゃないけれども、石井信司郎ね、例えば次から次と限りなく沸いて来る。まぁ石井というのはまぁ井戸なら井戸の水がこう沸いて来ると。信司とは、信ずる事をもって司さどるいうですかね。信じ司さどると書いて信司と読む。神様は信じる者を信じるとも仰せられる。
 そこでなら今日はどう信じるかという事を。「天が下に他人というような事は無き事ぞ」と言ったような御教えをま例に取りましたがです、信じるという事は人が言うということである。信という字は人が言う事で、人が言うことをどう信じるかと。私の為を思うて言うてくれると信ずるという事。他人じゃないのだからという頂き方。そこにはニコニコとして受けられるというか。有り難く受けられる。お礼が言えるような心も生まれて来るんだけれど、さぁそこんところを一辺通り分からしては頂いとるから。
 それを神の声として頂かんならんと思うて、はぁ泥棒と言われてよくよく厳密に自分という者を見極めて行きよったら、なるほど泥棒と言われる筈だなと。乞食じゃと言われてなるほど乞食じゃと言われても仕方がないな。自分の心の問題ね。人間が作った法に触れるような悪事はたとえばしていなくても、普通人間が言う泥棒やら乞食やらしとらんに致しましても、自分の心というものは神様が見てござる世界という。神様からの眼から御覧になりゃ成程自分は泥棒であろう、または乞食でもあろうと分かる。
 私は思うのにそのう信心も出来んの、におかげ下さい下さいって言うのは、やはり私は乞食のようなものだと思う。自分は働きもなく働きもなくてね、例えば人の門口に立ってどうぞお恵み下さい。とこう言うのはを乞食と言うでしょう。それは人間の場合ですけれども、神様の前にだって同じ事じゃないですか。何の働きも出来ないね。いわゆる端を楽させる何んらの働きもないのに、信心も言うわば出来んのに、どうぞ下さいどうぞ下さいと言うて、お頂戴をしているようなもんですからこりゃ乞食でしょう。
 神様の目からご覧になりゃ乞食と同じ事。泥棒はした事ないと言うてもね、成程人の物を取ったりはせんだろうけれどもです、例えば信心のなかった時代やら、信心があってからもそうですけれども、神様のお恵みの物をお恵みの物とも分からずにです。それをお礼も言わずに下さいとも言わずにです、黙って例えば生きて来たという事だけども、お前は泥棒生きをして来たんだと言われておる。ですから厳密に言うとそうなのであるね。人から言うと泥棒もした事ない乞食をした事もないから。
 神様が見てござるから、神様が御承知だからね。しっかり信心の帯をせよと仰る。信心の帯というのはどういう事かと。信心の帯というのは、金光様金光様と唱え続けておるとい事じゃない。信心の帯ということは、今日ここで言う信ずるという事。信じておるという事。その信じておるという帯をしとかにゃいかん。その帯をしっかりしとかなきゃならん。その帯をしっかりしておるから、例えば腹を立てなと仰る様にです、腹を立てなで済むのである。
 自然との対決とこう言うね。そうした自然との対決の場に於いて、私共がですね、それに打ち向かい打ち勝っていく事が出来る。例えばそん時に馬鹿と言われても腹を立てん。腹を立てた時にはその事と既に対決して負けた事になる。いかに自然成り行きを大事にと言うてもです、負けてばっかりいったんじゃいかん。負けるという事はそこではね腹を立てないという事ですね。そこでならそのう堤清さんがお夢の中に、真摯にそんな事をちゅうて頂いたという。
 お互いが信心させて頂いておるから、投げられても投げられてもニコニコしておるようであるけれども、腹の底ではそれが残念で残念でたまらない。人のいない場に行ったらもう慟哭して泣いておる。私はその信司さんの場合、そのう投げられても投げられてもニコニコとしておる。清さんはそれを見て、はぁ信司さんはさすがに偉いなとこう。私はそこ迄聞いた時にですね、そのう便所の中に入ってそのう泣いておる、男泣きに泣いておるというところを聞かして頂いて。
 、こりゃまぁ信司さん事だけじゃなかろうけれども、信司さんをそこにそのう頂いておるから。それをそういう時もあろうかと私は思うね。例えば清さんと言うて話すんですけれども。いわば若い社長さんであるね。そこの従業員というのは自分よりも皆んな先輩ばっかりである。おしょくとんばっかりである。とても自分の言う事ぁ聞きゃさん人ばっかりである様なら。自分は社長としてこうもありたいと思うけれども、そげな事はいかんばいと一辺で言わば撥ねつけられるような場合もあろうと思う。
 そういう時に自分は何の為の社長かと思うて、情け無い思いをする事もあろう。あれだけのいわば屋台骨の中心としてやっていくのには、余りにも自分がひ若い又は体験も薄い。そういう時に本当に無念な思いをする事もあろう。けれどもそういう時にですね、そのう例えば泣き言やら悔やみ事やらは、御結界に持って来られるという事が有り難い。お便所というのはそういう事じゃなかろうかと私は思う。内の中ではニコニコとしてそれを受けておるけれども、使用人の癖にねぇごと言よるかと言ゃもうそこで喧嘩です。
 自分は右と思うても「あぁそうの」と言うて、むしろ却って社長さんの方が頭を低うして聞いとらならん事もあろう。けれどもそれこそ一寸の虫にも五分の魂であるね。商人としての道を一生懸命励まして頂いておる。それに専念しておる信司さんにしては、それよりも私の言う事の方が本当だと、いうな場合もあろうけれどもです、そういう時に御結界に出てきては、先生こういう場合にはどういう風にしてここを頂いていったらよいかと、いうな事まぁ事実そうなんです。そういうところをこう通らせて頂いておる。
 けれどもんなら今日の御理解から、自然のそのそうした対決の場でです。ニコニコしておるようであっても心では泣いておるという事は、これはもう既に本当言たら負けておる。けれどもそうして稽古をしておるという事。だからここのところの体験が繰り返し繰り返し出来るようになったらですね、そこをもっと大きな心でですね、それこそここへ出てきては泣き言を言うのではなくてです、今日はこういう事でしたけれども、考えてみると本当に有り難い事でしたと。先日もそれとそれの様な事があった。
 もうお母さん達が居る頃から、おる番頭さんがおります。信司りうさんも例えば御祝儀なんかがある時に、二階なら二階にそのお客さんに接しておる時にでしょう、信司さんあんたも少しはこういう大きな商いをする時にゃ、その場に折ってからね、私が商売しょるとばみておき、というわけであった。ところが信二さんとしてはもう心外も心外、もう実を言うたら先輩のその番頭がやってるから、自分がこそこそ若大将ぶって出て行くよりも、商いがし難かろうと思うて自分は行かなかったんだ。
 けれどもそのう番頭案としてはね、あんたは御主人の時にゃすべて何処さんか言ってしもうてから、こげん時私がしちょるとばちゃんと見とかんのと、いうなことを言うならいくら先輩の番頭であっても、そのういわゆるがくっと来る事はきた。けどもそげんまぁ言うたってそしてまたいうことにゃ、その番頭さんの商売のしかたと、僕の商売の仕方は全然違うんだという訳です。どちらがいいとは言えない。だから僕は僕の行き方で行こうと思っておるのにその番頭はそういう。
 そういうことがあったある事がある訳なんです。先日もそのう自分の家にその人の自家用車を買うた。そして自分方の家にの事でんそん自動車をもちながらです、自分ところのこれは娘の名前で買うとくとじゃけん娘んとじゃからというてから、むつやの車ばぁかり使う。もうそのうそりゃ先生考えてみると汚い事ですとこうね。乗ったちゃどうあるかと自分のもんばしあるかと、神様の車じゃないかとそれを番頭たちがなら自分の修行にじぶんな持っとってから自分な使わなお店んとを使う。
 そういうようなことがとても10年前というその、なんかここに煮えくり返るもうその日一日どうにもそれが、その合点がこうそのうさばけんのです。というて言うたんじゃいけんと思うて、店閉めた店の者は帰ってしまったけれども、一人考えよると考えようるほど腹が立って来るという訳です。自分がもっと年を取っておるか自分がしっかりしとりゃ、そういうことをしゃ切るまいけれども、自分をなめておるからそういうことをするんだとおもうから。腹が立ってくるだけ。
 そこで近所に住んでおるもう一人の番頭さんの家に電話を掛けた。もうそりゃ店をしもうてしもうてから、その番頭の人に聞いてもらわにゃ胸が治まらんちゅうのであった。それから家さん直ぐあんたん所に行って、ちょっと話があるからいってもよかろうかと、したらこの夜中にねぇごとですかちゅう。いんにゃちょっと相談したい事があるからと、そんなら僕が行きましょうと言うてその番頭さんが、夜中に来てくれた。そのう来てくれたという事だけでねもう心が治まっただんだんね。
 実はもうわざわざ夜中にちゅう事ではなかったけれども、実はこうこうじゃったとそしたらそのう番頭さんが言う事がです、信司さんあんたはこまいって。そこばいっちょ大きゅうならにゃっとこういう。もう不思議に自分の言う事聞けた時に嬉しかったけれども。今度は反対にあんたこまいち言われたのに又腹が立って来た。はんな事ねそげなこっちゃいかんのうやとこういうもらや、胸がすぅっとする筈じゃった所がですねぇ、そりゃ真実にまぁそのう社長さんとらまえて。
 信ちゃん信ちゃんいうてね子供の時から来とりますもんですから、そりゃ信ちゃんあんたがこまかばいとこう言われたら、またそのことが有り難かった。けれどもよくよく考えて見るとやはり自分がこまい。という事が分からして頂いてです、明くる日その事をこのお届けさして頂いたらこの様にスッキリした。些細な事ですけれどもそういう様な事は一応あっておろうかとこう思うのです。ちいさき信司さんにそのうえらそうに、まぁそういう様な事を神様、石井清さんにお夢を持って下さったのであろうかと。
 そういう様な場合にその事と対決してですね、その問題と対決してその、顔色には出さん。ニコニコとしてるけれども、実際は便所の中に入って、男泣きに泣きたいごとある時もあろうとこういう。そういうような、例えば問題の時にですね。そういう一言一言に私共がね、それが他人ではない親身な者の言う事でありしておる事であると。他人と思うとるからそのう車に乗って行く事が腹が立つ。他人と思うておるからそういう事を言われると腹が立つ。ですからそこん所を例えばま信司さんに出会うとるならば。
 そういうところを繰り返し通らして頂いているうちに、その位な事では腹も立たない。いやむしろお礼が言えれる様な心。形の上に於いてだけはニコニコと投げられておる。いつも投げられつづけである。だからもうこの頃もう慣れたと言う。その慣れたわけではなくて、そこの真意が分かるいわゆる信心の帯をして。しっかり信心の帯をしてそれが言わんで済み、ニコニコとしておれれるおかげを頂くという事がです。信心の帯をせよという事ではなかろうかとこう思うのですね。
 信ずる事が出来ないところに、例えばいわゆる腹を立てなと仰るけれども、腹が立つのである。私共は限りなくどこまでも信じてやまない、言わば確信の持てれる生活と言うか。生き方の出来るおかげを頂く事を願いとしての、信心の稽古をさせて頂いているのですから、そういう一齣一齣に起て来る、例えば自然との対決の場でですね、見事に怪我せんでん済むような、投げられかたが出来るおかげ。それも神様が覧てござると信ずるから、平気でおれれる。
 そういう例えば日常の中から起きて来る、茶飯事の中にある事柄との信心での対決がですね、いよいよ安定した信心とでも申しましょうかね。神様に安心してもらえれる信心とでも申しましょうか。が確立されて来るのでございますから。まぁけれどもやっぱり初めの間は失敗です。けれども信司さんのそれじゃないですけれども、まぁニコニコとして投げられておる。腹の中ではどうであっても、まぁニコニコとして投げられてね。それがもうたまりたまったら御結界へ持ってきて。
 お取り次ぎを頂いたらそれが胸がすっきりとする。そういう繰り返しの稽古をさして頂きよるうちに、段々ね御結界にはそのう泣き言ではない、お礼としてのお届けも出来るような、おかげも頂けるように段々なるだろう。例えば五十八節には、そういう様な意味があるとこう思うんです。「人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく覧ておるぞ しっかり信心の帯をせよ」と。
 しっかり信心の帯をせよという事はです、唯金光様金光様と言よれば信心のしとるような事では出来ん。最近帯のお供え帯を頂いたというひとのお届けを幾人もさして頂いた。さぁ信心の帯をせよということばい。はぁ教祖様が先日楽の次の前、その前こうやって帯を頂いたと、でないと久保山さんも先日東京から帯が送って来たとこういうね。唯そういう様な中にもです神様がですね。信心の帯をせよと言うてござるとこりゃまぁもちろん、合楽の人はそう言う風に悟るに違いはないですけれども。
 なら信心の帯とは、唯、金光様金光様、唯、お参りをしておるという事じゃないという事。信心の帯とは私がどれほど信じておるか。その信の帯をするのだ。信の帯をしておるから、乞食じゃと言わても腹が立たんのである。泥棒だと言われてもそれに赤面弁慶になって、言い訳する事もいらんのである。信じておるから言わんで済むのであるね。そういうところをです私共はしっかり稽古さして頂くのが。
 しっかり信心の帯をせよと仰るのはそういう事じゃなかろうかとこう思う訳ですね。唯、金光様の信心しとる、金光様唱えておるというだけではです、必ず失敗なんです本当心持じゃね、信じる力をいよいよ作っていくという事がね、そうだと私は思うのです。特に今日は「天が下に他人とという事はなきことぞ」という御神訓を私が書いて参りまして、この58節を聞いて頂いたんですけれども。
 天が下ににはもう他人ということは無きと言うならば、世界の同胞いうことは、はらからという事は兄弟同志だという意味なんですね。いわば兄弟から言われた事に腹を立てるということはおかしい。それを兄弟と信じれるところに私は、天が下に他人ということは無きものぞという、いわゆる御教えがぼおっと生きて来るとこう思う。いわゆるそう言う事を信じる。それを信じる。そういう稽古をひとつさせて頂かねばならんと思うですね。   どうぞ。